人間であることを、コストだと思い始めた違和感

英語、プログラミング、ミニマリズム、そしてAI。時代ごとのトレンドは常に、複雑なものを簡略化する方向に向かってきた。その流れの中で、何かが少しずつ削ぎ落とされている気がしている。

読書をしない。要約だけ見る。対話を面倒くさがる。曖昧さに耐えられない。それ自体を責めたいわけではない。ただ、その行動の根っこに「人間であることをコストだと思っている」感覚が透けて見えるとき、違和感を覚えずにはいられない。

タイパ、コスパ、効率化。それらは本来、何かを成し遂げるための手段だったはずだ。しかしいつの間にか、理解することよりも理解したと言える状態になることが目的になっている。表面だけ拾って、分かった顔ができればそれでいい。深さを持たないまま、自信だけが育っていく。

人間であることにはコストがかかる。読書も、対話も、複雑さと向き合うことも、すぐに何かに変換できるわけではない。しかしそのコストこそが、人間として生きることの中身だったのではないか。

省いた結果に残るのは、機能だけだ。感情も、行間も、曖昧さも、処理できないノイズとして切り捨てられていく。それは効率化された人間ではなく、人間ではない何かに近づいていく過程に見える。

複雑さを受け入れること。答えのない状態に留まること。そのコストを払い続けることが、人間であることの条件なのかもしれない。省略された先に何が残るのか、もう少し立ち止まって考えてみたい。

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